「元気にしていること」が自分を救い自分を殺す
ある方に、Twitterで「 #いいねした人が1冊の本だとしたら最初の1行には何と書いてあるか考える」をやっていただいたことがあり、そのときくださった言葉が「しんどい時も笑顔を欠かさないのは、自分にかけた魔法なのだ。わたしはげんき、と言い聞かせたくて。」だった。
ずどんと心に刺さり、とてもびっくりしたのを覚えている。第三者視点からの自分がこんな風に見えているのだとしたら、それってなんだか、全部を見透かされているようでとても恥ずかしいなと思った。
私は元気な自分のことがすごく好きで、あんまり元気じゃないときは、楽しそうに写ってる過去の写真を見返したりして「こんなに元気にできるんだから、大丈夫だ」と思って安心したりする。(そういうこと、結構みんなやってるのかな)
自分のことが好きなわけじゃなくむしろ嫌いな方だと思うのだけど、「いつか奇跡的に私のことをめちゃくちゃ好きな人が現れたら、楽しそうな私の写真を集めたアルバムをプレゼントしてほしいな」と思ったこともあるくらい、自分の元気な姿を見ると、なぜかとても安心する。
こんなかんじで、「元気な自分」は私のことを救ってくれる存在なのだが、自分のことを殺してしまいそうな存在にもなり得るので、へんなの。と思う。
元気がないとき、上辺だけでも元気に振る舞うことでその瞬間の自分を救うことはできるのだけど、元気な自分を装ってしまう代償って意外と大きくて、後から心にぽっかり穴が開いてしまったような感覚に陥ってしまったりもするのだ。
ちょっと無理して元気にしていたとき、「私の前では無理しなくていいよ。余計心配になっちゃうから」と言われたことがある。心が楽になる気がして単純に嬉しかったし、みんな気付いてるけど言わないでいてくれてるのかなとも思った。
私の「究極の元気なし姿」って本当に元気がなくて、たぶん周りをすごく心配させてしまうだろうから、弱い部分もある程度見せられている親しい人の前でも、なかなか見せるのが難しい。別に無理して見せる必要もないしなと思うし。
本当に元気でいられる瞬間をできるだけ増やしたいなと思いつつ、どうしたら最大限自分を守れるのか、考えてみてもいいのかもしれないな。
と、色々思っていたことを一回書いてみたけど、別にそれほど深刻に悩んでいるわけじゃないし、ほんとに元気なときの方がたぶん多いから、もし心配してくれた人がいたら、わたしは全然大丈夫ですと言いたい。頭の中で考えていたことを書き出してみようと思うと、どうしても深刻っぽくやってしまうの、やめれたらいいんだけどな。
ずっと思ってるけど、頭の中のものを言葉に、そっくりそのまま移行していくのって難しすぎるし、たぶん一生できない。
だから文章を書くこと自体嫌になってしまうこともあるけど、「言葉にした瞬間、それは全部虚構」と、割り切ってしまうしかないんだろうな。
気をつかえる自分のことが好き
上司や取引先の人とご飯を食べるときなど、「飲み物はまだ大丈夫かな」「今うまい返しができなかったかな」「お会計は誰が払うのかな。なんて声掛けるべきなのかな」と色んなことが常に気になってしまう性格で、にこにこしていても、気づけばどっと疲弊していることが多い。
気をつかう、気を回すことって疲れるな。難しいなと思う。
でもその思いと並行して、「気をつかえない自分が嫌い」という思いも、自分の中に根深く存在していることに気付いた。
私は、実家で一緒に暮らす家族の前ではまったく気をつかえず、本当に本当にひどい。
家族なんて気をつかう方がおかしいし、そんなもんだろうという気持ちもあるが、「自分のために何かしてもらったらありがとうと言う」「不機嫌でも態度に出さない」など、家から一歩出れば当たり前にこなせることをきちんと毎回できないことは本当に最低だなと思うし、思い返すだけで心がきゅっとなる。
友人など家族以外の親しい人の前では、家にいるときみたいな自分は絶対!と言っていいほど出さないし、上司と接するときのような疲れも、まったく感じない。
疲弊する気のつかい方、疲弊しない気のつかい方、私は両方しているのだなと思った。
(もちろん、親密度などの関係性の違いも確実に影響しているが。)
親しい人に対しては、傷つけないように、これからもずっと仲良くできるように、気持ちいいコミュニケーションを取りたいなという思いで接しているが、
疲弊する気のつかい方をしてしまう場面では、たぶん、「いまこの行動をしたら相手の目にどんな風に映るかな」「自分はどう評価されるかな」という思いが先行してしまっているのだと思った。
家族に対しては、プラスの気持ちできちんと気をつかえるようになれたらいいなと思う。
「どんな態度をとったって自分のことを好きでいてくれる」と驕ってしまうくらい、ここまで大切に育ててきてくれたことには本当に感謝をしているのだけど、だったらちゃんと恩を返そうよと、子どもすぎる自分の心に、問いかけています。
根本、こんな人によってはあたりまえのようにできることをある程度意識しないとできない時点で、私って全然いい人じゃないんだな。とも改めて思うのだけど。
きちんと気をつかえる自分のことが好き。
それ以外の自分は好きじゃない。
とちゃんと気づいたので、これからは「いつも好きな自分でいられるように」していけたらいいなと思っています。
できるのかな
強い女なんだろうか私は
「強い女の人は私とは違う。私は弱いから」とずっと思っていたけれど、最近、もしかして自分は周りから強い女だと思われているんじゃないかと思うことが増えてきて、強い女って一体なんなのだろうと考えるようになった。
意思が強いとか、思ったことははっきり言うとか、強さってもちろん色んな形があると思うのだけど、私は最近「どの強さも持っていないからせめて持ってるように振る舞わなきゃいけない」と思って生きてしまっていた。
今の会社で、「主張はしたもんがち」「謙虚な人は損する」ということを身をもって学んでしまったからだ。
違うと思ったら違うと言うし、泣き寝入りなんてしたくないし、これ以上関わったら心が死んでしまうと思った人とは距離を置くようになった。
でも、そうやって今の環境に適応していこうとしているうちに、周りから「あなたは強いからね。私にはできないよ。」と言われることが増えてしまった。
別に強くないし、少なくともなりたくて強くなったわけじゃないのにな。ともやもやしていたとき、ある方に「成長するのはいいことだけれど、しなくていい成長もあるんだよ」という言葉をかけてもらった。
その通りだと思った。
今の環境から自分の心を守るためにどんどん表面的な強さが増してきてしまったけれど、別にそれは、しなくてよかった成長だったと今では思う。
誰からでも接しやすいと思ってもらえる人になりたい。とずっとずっと思っていたのに、ちょっと忘れてしまっていた。
しなくていい成長をしないことを、頑張ろうと思う。
環境に適応することは、必ずしもいいことじゃないよ。と学んだ社会人1年目の終わりなのであった。
ちなみに普通にめっちゃ元気で、今日は中華料理屋さんでご飯をおかわりした。
美味しかった。
かなしい気持ちになったらサンドイッチを買ってしまう
会社に入ってから、仕事で嫌なことがあった日や、特に何もないけどしょげてる日は帰り道にサンドイッチを買うようになった。
遅い時間で酔っ払いばっかりの駅のホームや、誰もいない最寄駅からの帰り道でサンドイッチを食べると、なんだかわからないけど無心で無敵の気持ちになれるから。
おにぎりや菓子パンだともっと虚しくなってしまうのだけど、なぜかサンドイッチだけは特別扱いな気持ちになってしまう。
なんでだろうね?
「夜だけ開店するサンドイッチ屋さんがあったらいいのにね?」と前に友達に言ったら、「もうあるよ」と言われた。そうなんだ。
いつか、かなしい気持ちになったとき一緒に帰り道でサンドイッチを食べてくれる人と出会えたらいいなと思っている。
ひとりだとやっぱりちょっと寂しいから。
今日もかなしい気持ちだったからサンドイッチを食べた。
お腹いっぱいになったけど、たぶん家に帰ったらサンドイッチのことは黙って夜ごはん食べちゃうんだろうな。
秘密サンドイッチ。
夜道でサンドイッチを食べるとすごくいい気分になるので、ぜひやってみてください。
わたしはおすすめです。
「ギャップ」から生じる誇大したイメージ
「昔は悪かったのに、今じゃこんなに立派に働いてすごいね」
「普段クールな人に褒められると、嬉しいよね」
両方ともよく聞く話なのではないかなあと思っています。
実際に私も、嫌われてるかも。と思っていた人から優しくされると、飛び上がるほど嬉しくなってしまいます。笑
しかし、実際ところ、
①昔は悪かった
②今は立派に働いている
の①から②への振り幅が大きいからこそ、②が実際よりもより良いものに見えてしまう。というだけの話であると思います。
①東大に入学
②今は立派に働いている
このような分脈の場合、受ける印象はまったく違うものになるのではないでしょうか。
別に、「昔やんちゃしてたけど今は急成長企業の社長してます!」とかをバンバン言ってる人が悪いとかではないです。
実際、世の中は自らが思っているよりも「イメージ」「印象」とかいう不確実なものによって回っていると思います。
人間はあほだし単純なので、目先の情報だけを自分の中にあるものさしで判断してしまうものなのだなと、感じています。
ただ、ずっとずっと真面目に頑張ってきた人が「イメージ」とかいう漠然としすぎているものに影響をうけ、場合によっては損をする。
という構造に関しては、なんだかむずむずしてしまいます。
イメージってすごくこわいよね。
私は、できるだけ客観的な尺度で物事を判断していきたいなといつも思っていますが、
そう思っているのは誰かっていうと紛れもなく私で、私は幸か不幸か「主観」から逃れることはできない運命な訳で。
なに書いても「むずかしいよね」しか言えないからブログ書くの嫌だったんですけど、
内側に置いといたら知らないうちにどっかに消えてしまうなと思ったので書きました。
たのしかった。
さようなら
多様性をあたりまえに認めること
これは、去年の6月のわたしのTwitterの投稿です。
この間自分のTwitterを見返していたときに見つけて(自分のTwitter見返すの大好きで、定期的に過去ツイート発掘大会しています笑)、
わたしは多様性について結構長い間考え続けてるなあと気づきました。
わたしにはわたしの意見や感情があるし、他人には他人の意見や感情があるし、
そんなことはあたりまえだとは思うのですが、
でもそれって、意識的に心の中に置いておくべきことだと、わたしは思っています。
わたしは、人からどんなことを言われてもたぶん驚かないです。驚かないというか、受け入れないことはないなと思います。
「自分と他人は違う」ことはあたりまえだと思っているし、「受け入れない」ことのメリットは何ひとつないと思っているからです。
わたしは、他人を傷つけるのがすごく怖いです。
人は知らない間に相手を傷つけることのできる生き物だと思っているからです。
だから私は、人とのコミュニケーションがすごく慎重になってしまいます。
踏み込んではいけない領域はどこなのか、どこまでなら近づいても大丈夫か、すごくすごく慎重に確認しながら会話をしている気がします。
相手に自分を好きになってもらうことよりも、相手を傷つけないことを優先してしまっているのかもしれません。
多様性を受け入れることと、人との親密な関係を築くことを両立するのって、すごく難しいなとわたしは思っています。
絶妙なバランスを保てる人が、周りから好かれる人なのだろうなあ。
わたしの2017年の抱負は「接しやす〜い人になる」だったのですが笑、
接しやすい人になるって、すごくむずかしいなあ。。。もう2年経っちゃいました👶🏻
小学生のとき見ていたドラマに「誰にも嫌われたくない人は、誰からも好かれないんだよ」みたいなセリフがあったのですが、
いまだにこのセリフがずーーーっと忘れられず、心の中に留まっています。笑
みーーんなではっぴーになれたらいいのになー。
おわりです
知らなかった、だから、(創作)
雨が降ってた日になんとなく書いた嘘の話。
土砂降りの日にお姉さんに傘をもらったことがあるのは、本当です。
今日、私は雨が降るのを知らなかった。
だから、傘を持ってこなかった。
今日、自転車にはねられるのを知らなかった。
だから、いつもみたいに青信号を渡った。
このくらいの雨なら、私は傘なんてささなくて大丈夫だ。
どうせお風呂に入ったら体じゅう濡れるんだし、こんな雨で風邪をひくほど、私はやわじゃない。
小学生の頃国語の授業で、むしゃくしゃした主人公が土砂降りの雨の中を傘もささずに歩き、水たまりをわざと踏んで歩いてびしょ濡れになる話を読んだ。
先生は私に「◯◯ちゃんは、この主人公の行動を理解できる?」と聞いた。
私は、「はい、できます」と答えた。
「私も時々、この主人公と同じように、いっそのことずぶ濡れになっちゃって、自分も周りも全部ぐちゃぐちゃにしてしまいたいと、思います」
周りのクラスメートはきょとんとしていた。
「変なの」「雨なら傘をささなきゃいけないよ」と口々に言った。
先生はどんな顔をしていたか忘れてしまった。
あのときどんな答えを求められていたのかも、もうすっかり忘れてしまった。
最寄駅に着き辺りを見渡すと、私以外の人はみんな、傘をさしたり、かっぱを着たり、傘を持って迎えに来た人のもとに駆け寄ったりしていた。
めんどくさい。
やっぱり、傘をささずに帰ってしまおう。そう思い歩き出そうとしたとき、ふと、何年か前の雨の日の出来事を思い出した。
その日は、雨が地面を打つ音が響き、人々が思い思いの色の傘を頭の上に広げて歩いていた。
私はこの日も、傘を持っていなかった。
家まで歩いて15分。まあ、このまま帰っても大丈夫だろう。
ぺらぺらのビニール傘に500円も出すくらいなら、コンビニでシュークリームとエクレアを買ってお釣りをもらった方が、よっぽどいい。
そう思い傘をささずに歩いていたら、途中で急に知らないお姉さんに肩を叩かれた。
「風邪ひくよ!私の家ここだから。これさして帰りな」
お姉さんはそう言って、私にビニール傘を差し出した。
傘の手に、小さな星型のシールが貼ってあった。
私は断ろうとしたが、お姉さんがいいからいいからと言ってくれたので、とても申し訳なかったが傘を受け取った。
帰り道、星型のシールを何度も指で触りながら歩いた。
角度を変えるとキラキラ輝く、金色のシールだった。
よし、親切な誰かに傘をもらわないために、今日は傘を買おう。
私は、コンビニでたいして欲しくもない折り畳み傘を買った。
ひょうたんのような模様の入った、緑色の傘だった。
ぺらぺらのビニール傘を買うよりはいいかな、と思った。
周りの人と同じように、頭の上に傘を広げる。
思っていたよりも、雨は強かった。
傘にあたった雨粒が、ポポポポポポ、と音を立てる。
そのあと私は、自転車にはねられた。
ふしぎな柄の傘をさし、いつもの道をいつものように歩き、いつもと同じように青信号を渡った。
なぜかわからないけれど、赤い傘の揺れる自転車が突っ込んできて、私にぶつかった。
せっかく買った傘は、手から離れて道路に落ちた。
自転車に乗った人がさしていた赤い傘も、道路に落ちた。
ふたつの傘は道路に落ちてもなお、ポポポポポ、と雨音をたてながら静かに揺れていた。
今日、私は雨が降るのを知らなかった。
だから、傘を持ってこなかった。
今日、自転車にはねられるのを知らなかった。
だから、いつもみたいに青信号を渡った。
雨が降ると、私はこの日の不思議な出来事を思い出す。
雨の中、しぶしぶ買ったひょうたん柄の傘をさし、おまけに自転車にはねられた日。
今思い出しても、へんてこだ。
最近では、自宅を出る前に必ず天気予報を見る。
雨が降りそうなら、折り畳み傘をかばんに入れる。
親切な人に傘をもらわないために。
欲しくもない傘を買わないために。
自転車に、はねられないように。
たまには、あのときの主人公のように水たまりを踏んで歩き、自分も周りもぐちゃぐちゃにしてみたいなとも思うけれど。
雨の日も、そんなに悪くない。
傘をさしても、ささなくても、ふしぎな思い出ができる。