おすしがだいすき

毎日生きてます!

逆さ読み

 

私は小さい頃から、頭の中に描いた単語や文章を、逆さから口に出して読むのが得意でした。

 

「りんご」だったら「ごんり」。

「わたしのおかあさんはわたしににています」だったら、「すまいてににしたわはんさあかおのしたわ」というように。

 

でもこれを誰かの前でやっても、私が正しい逆さ読みをしているかなんて、紙に書いてみないとわからないので、ちっとも特技になりませんでした。ざんねん。

 

これは最近になって気が付いたことなのですが、私は何か考え事をするときに、頭の中に自分の思考や感情を、文字として表示する癖があります。

目で見た言葉も、頭の中に文字として浮かべることができる気がします。

 

頭の中に言葉や文章が文字として浮かぶので、時々言葉遊びの感覚で、その文章を逆さから読んでみたりするのです。

全然意味はないのだけど。

 

そんなようなことを、私は昔からしていたのかもしれません。

 

私は残念ながらみんなの頭の中が見られないので、みんなの頭の中にも私と同じように文字が浮かぶものなのか、わかりません。

 

逆さ読みが得意だと感じていたのは、みんなが逆さ読みなんて意味のないこと、してこなかったからかもしれません。

 

考えたことや感じたことをすぐ文字に起こしたくなってしまうのは、こんなところにも関係しているのかなと、ちょっとだけ思った最近でした。

 

逆さ読み、みんなはしないのかな。

 

 

 

 

 

 

思考と感情の記録

 

文章なんてものは、「何が書いてあるか」ということよりも、「誰が書いているか」ということの方が重要なのではないかと感じることがあります。

 

私は、「頭の中を覗いてみたい」と感じる人に時々出会います。

そんな人の文章を読む場合には、そこに「どんなことが書いてあるのか」ということよりも、「誰が書いた文章であるか」ということに興味を抱いているのではないかと、なんとなく思ったりもするのです。 

 

人は皆、心や頭に、さまざまな思いや考えを抱きながら日々を生きています。

私も、生きています。

私は言葉や文章に触れることが好きだし、書くことも、好きだと思います。

ですが、沢山の人に面白いと思ってもらえる文章が書ける自信はありませんし、書きたいとも思っていません。

それなのにどうして、わざわざ人目に触れる場所に自分の文章を残そうと思ったのか、自分でも不思議です。

 

これまでは、誰にも公開していない場所に、自分の感じたことや考えたことを記録していました。

短くまとまりそうで、なんとなく誰かに見てほしくなったことは、時々twitterに投稿しました。

 

心のどこかで、誰かに自分をわかってほしいのかもしれません。

 

言葉というものは、文章というものは、人の心をできるだけ近い形で記録しておく、最良の手段であると私は思います。
私は、自分の思考や感情が、時の流れのなかで次々と失われていってしまうことが、怖いです。
失われたことすら忘れてしまうのも、とても怖いです。

だから、記録しておきたいのだと思います。

 

思考や感情は、秒単位で更新されていくものであると思うし、たとえ失われても、新たな思考と感情は次々に生まれます。


それでも私は、一瞬でも自分の中に居た誰かを、失いたくはありません。


人生は途切れることのないレールであると、時々考えます。

私は、私という名の列車に乗って、どこまでもどこまでも、走り続けます。
今どこを走っているのか、これからどこに向かうのか、それも勿論大切ですが、今までにどこを走り、どのような人と出会い、どのように感じ、考えてきたのかということは、もっと大切なのではないかと思います。


人の記憶はとても曖昧です。
それは、良くもあり、悪くもあることだと思います。 

 

人は嫌なことを忘れる力を持っています。

ですが、忘れたくないことも忘れてしまう可能性も、持っています。

 

私の中にある、全ての思考や感情を言葉として記録しておくことは、難しいかもしれません。

日々誕生し、変容し、消滅していくからです。

 

なので私は、できる限り多くの思いを、考えを、文章という形で残しておきたいと思います。

 

形のないものを無理矢理形にして、私の中に繋ぎとめておきたいのです。

 

形のないものを、失うのが怖いのです。