どんなことをして、誰になるのか
いつか誰かになったときのために、ノートを書き溜めていた。
本気で、溜めていた。
誰でもない今の私が綴った何ともない言葉も、私がいつか誰かになったときには、何かの意味や価値を持つのではないかと、心のどこかで期待していたからだ。
「誰の言葉か」は、ときには「どんな言葉か」を超えると私は感じる。
誰でもない今の私は、「どんな言葉か」で認められることを目指す過程で、「誰の言葉か」で評価されるノートを溜めているのかもしれない。
わたしは今、どちらを目指しているのか。
「誰」か、「どんな」か。
誰かになることが、いちばんの目標ではない。
今の私が好きだ。
今の私しか知らない私が、好きだ。
ただし、今の私の、
ちいさいのかおおきいのかわからない、
夢なのか夢じゃないのかわからない、
そもそもどこを目指しているのかもわからない、
そんな「何か」を叶えるためには、誰でもない私が「誰か」になる必要があるのかもしれないと感じたのだ。
きっと私はこれから先、
仕事に追われ、仕事で認められ、仕事で誰かに迷惑をかけ、
大切な人に出会い、大切な人とご飯を食べ、大切な人を傷つけ、
責任を持ち、自暴自棄になり、
どうでもいいことに時間を割き、
思ってたよりもたくさん寝て、
笑ったり、ときどき大笑いしたり、
自分に泣いたり、誰かのために泣いたりしながら、
あっという間に今の自分よりもどんどん歳上になっていく。
「好きなことを仕事にしたかった」
たぶん今でも、心のどこかではそう思っている。
好きなことに真正面からぶつかり、好きなことに向かってまっすぐ進んでいく人が羨ましい。
仕事にできるくらい好きなことに対して実力があり、好きなことを、誰よりも好きでい続けられる人にしかできないと思うからだ。
私は、好きなことに向かって、まっすぐに進んでいくことを選ばなかった。
たぶん、選べなかったのではなく、選ばなかった。
現実を見た。諦めた。
好きなことは、必ずにも仕事にしなくてもいいと思った。
逃げなのか、心からの思いなのかは、自分でもわからない。
この先の人生は自分の力でなんとでもなるということに気がついたのは、最近のことだ。
まっすぐでなくても、どこかに向かい、誰かになることは、不可能ではないのかもしれないと、そう感じた。
人生は、思っていたよりも長い。
ずっとずっとずっと長い。
私は、面倒くさがりで、短気で、根性なしで、まっすぐに誰かを目指すことはできなかった。
これから先、どこかで曲がったり、止まったり、後戻りしたり、
どんな選択でも、自分次第でどこにだって行けるのかもしれない。
私は、「どんな」を追求し、「誰か」になる。
行き方はまだわからなくて、行き先もわからなくて、誰になりたいのかもわからないけれど、
私はきっと、自分の行き方で、何かに出会う。
何かに出会って、誰かになる。
きっと、誰でもない今の私だから抱けた思いだ。